ナイジェリア
国旗のデザインの由来と意味
緑は森林と天然資源、白は平和と統一をあらわす、縦三分割の国旗。三分割のデザインで、ナイジェリアの主な三部族(北部のハウサ族、西部のヨルバ族、東部のイボ族の)とその融和をあらわしています。
ナイジェリアは、かつてイギリスの植民地でした。1960年の独立を前に、新しい国旗のデザインが一般から募集され、2870点もの応募作品の中から、23歳の大学生ミカエル・タイウォ・アキンクンミの作品が選ばれました。彼は当時ロンドン工科大学に留学中で、飛行機で旅立つときに空から見た、緑豊かな祖国を思い浮かべてこのデザインを考えたそうです。
もともとの原案には中央に赤い太陽が置かれていましたが、審査委員は中央の赤い太陽を不要と判断し、太陽を除いた緑と白のシンプルな縦三分割旗がナイジェリアの国旗になりました。
この国旗の緑色は、英国色彩基準の「BF2660」の色と指定されています。
このように、ナイジェリアが国旗の色彩を数値で表示する方式をとってから、主に旧イギリス領諸国で同様の表記法が広まりました。
ちなみに、国旗をデザインしたアキンクンミは、イギリスから帰国後、イバダン大学の教授となったものの、仕事を引退した後は貧しい生活を送っていました。こうした、「忘れられた英雄」への冷たい扱いに対して、多くのナイジェリア人が声を上げ、2014年、グッドラック・ジョナサン大統領からアキンクンミに勲章と生涯報酬が贈られました。
ナイジェリアの国旗の歴史
12世紀に内部ナイジェリアに成立したベニン王国ではこのような国旗が使われていました。
敵の首を刀で切る姿が描かれた赤旗です。ベニン王国は19世紀後半まで存続しました。
その後イギリスが進出し、1886年、イギリス領ラゴス植民地が成立。域旗は、イギリス領西アフリカ植民地域旗の流れをくむデザインの、「ブルー・エンサイン(イギリス青色船舶旗)」でした。
イギリスは、1914年までにはナイジェリア全域を保護領としました。
そして第二次世界大戦後、アフリカ大陸で17の国が独立し「アフリカの年」と呼ばれた1960年、ナイジェリアはイギリス連邦内の自治国として独立。現在の国旗が制定されました。
ビアフラ共和国の旗
独立を果たしたナイジェリアでしたが、1967年、イボ人を中心とする東部がビアフラ共和国として分離独立を宣言したことで内戦が起こりました。1970年に戦争は終わりましたが、ビアフラ側は敗北。ほぼ3年にわたる凄惨な争いで、内戦と飢餓の犠牲者は200万~300万人とされています。
黒人民族主義の指導者マーカス・ガーベイが考案した、赤・黒・緑の配色の旗。日の出は東部州の州章で、11本の光線は行政区の数にもとづきます。
※最終的にビアフラを承認した国家はタンザニア、ガボンなど4カ国にとどまり、他のアフリカ諸国はアフリカ統一機構憲章の「領土保全」を根拠にナイジェリアを支持しました。
ナイジェリアの国名について
ニジェール川の名前に由来し、ニジェールを英語読みした国名。「ニジェール」の意味には、「大きな川」や「語り部の川」「黒い」など諸説ある
ナイジェリアの歴史
- 12世紀頃にサハラ交易がさかんになり、北部にイスラム教が伝わる。南部ではベニン王国、東部ではヨルバ王国が栄えた。
- 15世紀末にポルトガル人が来航して以降、奴隷貿易を行い、沿岸部は奴隷海岸と呼ばれた。
- 19世紀後半はイギリスが進出し、1914年まで全域を保護領とする。
- 第二次世界大戦後の1960年、イギリス連邦内の自治共和国として独立。1963年には共和制にうつった。
- 1967年、イボ人を中心とする東部が分離独立を宣言し、内戦に突入(ビアフラ内戦)。
- 1970年に内戦は終わったが、その後もクーデターがしばしば起こり、政治は混乱。民族間の対立や、キリスト教徒とイスラム教徒の対立から暴動や武力衝突が起こっている。また、イスラム過激派「ボコ・ハラム」によるテロ事件も相次いでいる。
ナイジェリアの国データ
正式名称 | ナイジェリア連邦共和国 |
---|---|
英語表記 | Federal Republic of Nigeria |
漢字表記 | 尼日利亜 |
首都 | アブジャ |
略号 | NGA |
面積 | 92万3773㎢(日本の約2.5倍) |
人口 | 1億9587万人 |
通貨 | ナイラ |
---|---|
言語 | 英語、各民族語(ハウサ語、ヨルバ語、イボ語など) |
民族 | ハウサ族、ヨルバ族、イボ族など |
宗教 | キリスト教(カトリック、プロテスタント)、イスラム教、自然崇拝など |
独立年 | 1960年にイギリスから独立 |
国旗の比率 | 1:2 |
在留邦人数 | 127人 |