マリ


マリの歴史(略史)


国旗のデザインの由来と意味


は肥沃な土地を、黄色は鉱物資源を、は独立闘争で流された血をあらわします。
旧宗主国フランスとの結びつきをあらわすトリコロール三色旗のデザインを採用し、配色はガーナの国旗🇬🇭を手本として緑・黄・赤汎アフリカ色としました。

1960年6月、マリは、現在のセネガルとの連邦国家「マリ連邦」として独立しました。マリ連邦時代の国旗は、独立前年の1959年に憲法第一条で定められたもので、現在の旗の中央に、カナガと呼ばれる古代アフリカの黒人像を記号化した黒いシンボルが描かれていました。


マリ連邦の国旗(1959-60)

ところが、マリ連邦が成立してからわずか2ヵ月後にセネガルは連邦を離脱します。


セネガルが離脱した後、マリ共和国となってからもこの国旗を使っていましたが、住民の多くを占めるイスラム教徒らの要求により、1961年には黒人像を取り除きました。イスラム教では、神や人の像を崇める偶像崇拝が強く禁止されているからです。こうして、汎アフリカ色のシンプルな縦三色旗がマリの国旗となりました。

配色を入れ替えるとギニアの国旗🇬🇳となるので、こちらも注意が必要な旗です。

ところで、サハラ砂漠以南のアフリカでは、古い文化を持つ国として、エチオピア、ガーナ、ジンバブエ、マリが知られています。8〜11世紀にかけてはガーナ王国が栄え、13〜17世紀には黄金の交易でマリ王国が栄えました。そう。マリはかつては黄金郷だったのです。

最盛期は14世紀のマンサ・ムーサ王の時代で、メッカ巡礼の際には数千人の従者を引き連れ、100頭のラクダに大量の黄金を積み込み、各地に黄金を配って回ったといいます。そのために黄金の相場が下がってしまい、インフレを招くほどでした。※ 残念ながら、現在のマリは黄金とは無縁です。


西アフリカのマリ王国の王マンサ・ムーサ

敬虔なイスラム教徒であったムーサは、マリのトンブクトゥやガオに、数多くのモスクやマドラサ(イスラムの学院)を建設。トンブクトゥにあるサンコーレ大学は、ムーサの治世下において、イスラム法学者、天文学者、占星術師などを中東や北アフリカから招聘し、一大文化の中心地となりました。


マリの国章


国章は、カラハリ砂漠の砂をあらわす白い盾型紋章。工業をあらわす3つの歯車、川をあらわす3本の青い波線、牧畜をあらわす牛の頭、盾の左右には象牙とモロコシを掲げた2頭のシマウマで構成されています。下のリボンに記されているのが、「PULA(雨、雨よ降れ)」。


また、ボツワナ国旗の白と黒の線には、国章に描かれているシマウマの模様もあらわされているともいわれています。


マリの国名について

13〜17世紀に栄えた「王の居所、生きている王」という意味を持つマリ帝国が繁栄していたことにあやかり、名付けられた。


マリの歴史(略史)


  • 狩猟採集のサン人(ブッシュマン)が住んでいたこの地に、17世紀頃、ツワナ人が住み着き、18世紀にツワナ首長国を建てた。
  • 1835年、南からオランダ系移民のブール人が侵入してくると、ツワナ王のカーマ3世はイギリスに保護を求め、1885年にイギリスの保護領ベチュアナランドとなる。
  • 1910年には南アフリカ駐在のイギリス高等弁務官(特命全権大使)の管轄のもとに入る。
  • 第二次世界大戦後の1962年、カーマ3世の孫のセレツォ・カーマがベチュアナランド民主党(のちのボツワナ民主党)を結成して独立運動を進め、1966年にイギリス連邦内のボツワナ共和国として独立。カーマが初代大統領に就き、複数政党制のもとで政権を握る。
  • 多数派の黒人と少数派の白人との融和を進め、政情は安定している。

マリの国データ


正式名称 マリ共和国
英語表記 Republic of Mali
漢字表記 麻里
首都 バマコ
略号 MLI
面積 124万㎢(日本の約3.3倍)
人口 1854万人

通貨 CFAフラン
言語 フランス語、バンバラ語など
民族 バンバラ族、マリンケ族、プル族、トゥアレグ族など23以上の部族
宗教 イスラム教、キリスト教、伝統宗教
独立年 1960年にフランスから独立
国旗の比率 2:3
在留邦人数
19人

Information


マリ国旗

MALI
(3:5)


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