赤旗とトリコロールの密接な関係②

この記事では、フランスの7月革命、2月革命の歴史を辿りながら、赤旗が本格的に労働者や社会主義者のシンボルとなっていった経緯を紹介します。前半はこちらから

ナポレオンが没落した後、フランスではブルボン朝が復活しました。(復古王政)
しかし、彼らはフランス革命の成果をまるで無視するような政治を行いました。議会を解散させたり、選挙権を大幅に縮小しようとして、反発した民衆らによって7月革命が起こります。

1830年 フランス7月革命

1830年7月、民衆はトリコロール(三色旗)をかかげ、パリ市内にバリケードを築きます。国王シャルル10世は事態を楽観的に見ていましたが、市街戦がはじまると、軍は民衆を抑えることができず、シャルル10世は退位へ追い込まれ、その後亡命しました。


『1830年7月28日の市庁舎の戦い』ジーン・ビクター・シュネッツ

『1830年7月28日の市庁舎の戦い』ジーン・ビクター・シュネッツ

しかし、この革命の結果成立したのはまたもや王政…。ブルボン家の親戚のルイ・フィリップという人物が新たに国王になりました。

もともと、人々の自由や権利に理解があり、民衆からも期待されていましたが、結局彼が優遇したのはお金持ちだけ。選挙権も、一部の裕福な男性しか持てず、労働者や農民は不満を募らせていきました。


『レ・ミゼラブル』な6月暴動


ミュージカル映画『レ・ミゼラブル(2012)には、ルイ・フィリップの王政に反対する「王様いらない派」の共和主義者たちが1832年に起こした暴動が描かれています。このシーンでは、赤旗トリコロール(三色旗)が混じって掲げられている様子が見られます。

レ・ミゼラブル (2012 字幕版)

原作は、自身もフランスの政治家だった文豪、ヴィクトル・ユーゴーが執筆したロマン主義フランス文学の歴史小説(1862)。ナポレオン没落直後の1815年から1833年までのフランスが舞台。物語の中には、革命にのめりこむ共和派の秘密結社「ABCの友」の青年らが登場する。彼らと民衆が掲げる、赤旗とトリコロールの華やかな共演が(旗的な意味で)見どころ。© 2012 Universal Studios.

赤旗は、この頃にはもう「民衆の側の戒厳令」という文字を入れなくても、共和主義の意思表示になっていました。トリコロールを掲げているのは、王様の政治に対して革命を主張する人々。赤旗を掲げているのは、そもそも王様の政治には反対!という人々。2つの旗のもと、民衆は自由で平等な国の実現を目指し闘いました。(結局この6月暴動は政府軍により鎮圧されてしまいます)

1848年 フランス2月革命

選挙権も持てず、ないがしろにされて不満を募らせていた労働者や農民たち。1848年、彼らの蜂起によって2月革命が起こりました。国王ルイ・フィリップは亡命し、王政はまたもや崩壊します。

この2月革命がそれまでのフランス革命や7月革命と違っていたのは、以前のブルジョワジー(中産階級)主体の市民革命から、労働者(プロレタリアート)主体の革命へと変わったことです。1848年は、マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』を書いた年。当時、ヨーロッパでは社会主義に対する期待が高まっていて、2月革命にも最初から社会主義者らが参加していました。そんな中、労働者たちは次第に階級的意識(生産手段の私有を基礎とする社会の中で、階級と階級の間で生まれる社会的格差のこと)に目覚めていったのです。

つまりこれが、フランスで労働者たちが赤旗を革命のシンボルとして掲げた最初となりました。

さて。この革命後、荒れる議会を制し政局を掌握したのは、アルフォンス・ド・ラマルティーヌという人物でした。彼は共和政を採用すべきと主張しました。革命翌日のパリ市庁舎で、ラマルティーヌを中心とした臨時政府は共和制を宣言します。


振り返ってみると、フランス革命からすでに3回も王政は崩壊しています。革命や暴動が繰り返されても、自由で平等な世の中はなかなか訪れず、民衆が望むような共和政もまだ実現していません…。


命をかけて三色旗を守ったラマルティーヌ


ここで新たな問題が起こります。2月革命で赤旗を掲げた共和主義者たちが、新共和国の象徴はトリコロール(三色旗)はなく、赤旗にするべきだと言い出したのです。しかし、赤旗にはすでに階級闘争のイメージがあり、当時急速に広まっていた社会主義・共産主義を目指す労働者階級の旗印となっていました。ラマルティーヌも共和派でしたが、あくまでも、自由民主主義を理想としていました。彼はこう言って赤旗を拒絶しました。

市民諸君、私は死を賭して血の旗をしりぞける。
けれど諸君も、私以上にそれを嫌うようになるだろう!なぜなら、諸君が持ってきた赤旗は、人民の血の中を引きずられ シャン・ド・マルス(練兵場)をひとまわりしたにすぎないが、三色旗は祖国フランスの栄光と自由をたずさえ世界中をかけめぐってきたのだから!

群衆はラマルティーヌに喝采を贈りました。こうして、ラマルティーヌは赤旗がフランスの国旗になるという事態を回避し、トリコロール(三色旗)とともに自由民主主義の精神を守ることに成功しました。7月革命、6月暴動や2月革命では共にひるがえった2つの旗ですが、ここで道がはっきりと分かれました。共和国フランスの国旗にふさわしいのは、あくまでも三色旗。赤旗はもはや、フランスの共和主義者が掲げるものではなくなったのです。


『1848年2月25日、パリ市庁舎前で赤旗を拒否するラマルティーヌ』アンリ・フェリックス・エマニュエル・フィリポトー

『1848年2月25日、パリ市庁舎前で赤旗を拒否するラマルティーヌ』アンリ・フェリックス・エマニュエル・フィリポトー

市民革命時代の終焉

2月革命以降、革命は沈静化しはじめます。平和を切望していた人々は、労働者による社会主義革命を警戒するようになり、社会の安定を求めて、保守化した政府を支持するようになっていったからです。市民革命の時代は終焉へと向かいました。

そんな中、ナポレオン3世(ナポレオンの甥)が、民衆の支持を得てフランスの大統領になり、クーデターを起こして皇帝に即位します。フランスに再び、ナポレオン時代の帝政(帝王が行う政治体制)が復活。ナポレオン3世は産業革命や、フランスの近代化を押しすすめました。しかし1870年、当時のドイツ(プロイセン)と戦った普仏戦争で自らが捕虜になってしまい、帝政はまたしても崩壊します。

初の労働者政権、パリ・コミューン

ふたたび共和国になったフランス。しかし民衆は、ドイツに対する降伏や生活の困窮に怒っていました。パリ市民は独自の政権を打ち立てることになり、パリ・コミューンという初の労働者自治政府が生まれました。ここで赤旗が、はっきりと革命旗として掲げられます。


パリ・コミューンは、約2カ月で崩壊しましたが、政府軍によって鎮圧されるまでのわずか72日間で、新しい政策を次々と打ち出しました。このうち、政教分離の原則や無償の義務教育などは、コミューンが崩壊した後の第三共和制にも引き継がれ、今の世界に大きな影響を与えています。

さらにこの後、赤旗の歴史はロシア革命へ、そしてソ連の誕生へと続いていきます。


ここまで、フランスの革命期の歴史をざっくりと見てきました。約1世紀に渡るフランスの革命期…。長くてややこしいですね。でも、歴史と一緒に見ていくことで、旗のデザインにおける意味合いが、世の中の風潮や政治、歴史によって変わっていくという流れがよくわかります。

同じ時期に生まれたトリコロール(三色旗)赤旗。一方は自由・平等・博愛のシンボルとして。また一方は社会主義・共産主義革命、労働者階級のシンボルとして。全く違う意味で知られている二つの旗が、一時期はフランスの革命派のシンボルとして共にひるがえっていた…。

こんな風に、世界史を少し違う角度から見られるのもまた、国旗の歴史を辿るおもしろさのひとつです。


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