南アフリカ
国旗のデザインの由来と意味
南アフリカでは国民の7〜8割が黒人ですが、長年、少数の白人が政治を独占し黒人を分離・隔離するアパルトヘイト政策をとってきました。そのため、黒人の抵抗運動と国際世論が高まり、1991年にアパルトヘイト法が廃止され、1994年には全人種による総選挙が行われました。これによって初めて黒人の大統領ネルソン・マンデラが選ばれ、民主的な政府が誕生しました。そのときに作られたのがこの国旗です。
国旗の黒・緑・黄色は、大変革をもたらしたアフリカ民族会議(ANC)の旗に由来します。黒は黒人、緑は農業、黄色は豊かな鉱物資源、そして赤は真の独立と全人種平等の戦いで流された血を、白は白人を、青は青空をあらわしています。
6色という多くの色が使われたこの旗は、ネルソン・マンデラの言葉であるレインボーネーションからレインボーフラッグ(虹の旗)とも呼ばれます。ちなみに南スーダンの国旗🇸🇸や、エチオピアの国旗🇪🇹、LGBTの尊厳と社会運動を象徴する旗🏳️🌈も「レインボーフラッグ」と呼ばれています。
旗をデザインしたのは、紋章院の上級紋章官だったフレッド・ブロウネルという人物。この旗は、民主化された南アフリカを象徴するものとなりました。なんと彼はナミビアの国旗🇳🇦もデザインしています。
アフリカ民族会議の旗
アフリカ民族会議は、アパルトヘイトの期間、獄中のネルソン・マンデラをシンボルに白人政権に対して果敢な闘争を繰り広げた政党です。
ネルソン・マンデラは生涯、アパルトヘイトを覆すことに力を尽くし、南アフリカをアパルトヘイトから解放することに大きく貢献し、和解と多数決の時代へと導きました。その功績からノーベル平和賞も受賞しています。
南アフリカの歴史
15世紀末、ポルトガルのバルトメロウ・ディアスが喜望峰に到達。17世紀には、オランダ東インド会社がケープ植民地を建設しましたが、18世紀末にイギリスがオランダから支配権を奪い取ります。これを契機に、オランダ系白人のブール人(ボーア人)が内陸部に移動して、オレンジ自由国とトランスバール共和国を建国しましたが、両国からダイヤモンドや金が発見されたため、イギリスは両国を併合しようと、ボーア戦争(南アフリカ戦争)を起こしました。
当時、イギリス軍を含めて世界の軍隊では、歩兵が密集して横隊陣形を組んで攻撃前進するというのが一般的でした。対してブール軍は、民兵部隊で連装式ライフル銃を装備した騎乗歩兵が主体でした。このため、第二次ボーア戦争の前半、コレンゾーの戦いでは、ブール軍の犠牲者40人に対して英国軍は1127人と言う多数の犠牲者を出しました。
このようにブール軍も健闘しましたが、結局はイギリス軍に敗れ、南アフリカ全土はイギリス領となりました。
話が少し逸れますが、ボーア戦争(南アフリカ戦争)には、シャーロック・ホームズの生みの親コナン・ドイルが軍医として参加していたり、さらに、後にイギリスの首相となるウィンストン・チャーチルも、当時弱冠25歳で新聞記者として従軍していました。ところがチャーチルはブール軍の捕虜になってしまいます。1ヵ月後、巧みに脱出して無事助かった彼は、この体験を記事にして一躍有名になり、1900年の総選挙で立候補し見事当選しました。イギリスの歴史上一番有名な政治家チャーチルの誕生は、このボーア戦争がきっかけだったというわけです。
全土がイギリス領となった南アフリカ。1910年に、イギリス連邦内の自治領南アフリカ連邦が結成され、1961年には南アフリカ共和国として正式に独立しました。
南アフリカの国データ
正式名称 | 南アフリカ共和国 |
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英語表記 | Republic of South Africa |
漢字表記 | 南阿弗利加(略旗:南阿) |
首都 | ジュバ |
略号 | ZAF |
面積 | 122㎢(日本の約3・2倍) |
人口 | 5778万人 |
通貨 | ランド |
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言語 | 英語、アフリカーンス語、ズールー語など |
民族 | 黒人、白人、カラード、アジア系 |
宗教 | キリスト教、ヒンドゥー教、イスラム教など |
独立年 | 1931年にイギリスから独立 |
国旗の比率 | 2:3 |
在留邦人数 | 1505人 |