ミャンマー


国旗のデザインの由来と意味


ひときわ大きな星をつけた、黄・緑・赤の三色旗。この国旗は、2010年に国名をミャンマー連邦共和国に改めたときに、軍事政権(軍が政治を支配する体制)のもとで制定されました。
黄色は国民の団結を、は平和と豊かな自然を、は勇気と決断力をあらわします。

ミャンマーはかつてビルマと呼ばれていた国です。2010年まで使われていた国旗には、この国の7つの地方と7つの州を示す14個のが置かれていましたが、国旗変更でひとつの大きな星に集約され、統一国家の永続をあらわすシンボルとなりました。

独立後、1948〜74年までの国旗


ビルマ連邦の国旗(1948-74)

大きな星はビルマ連邦そのものを、5つの小さな星はビルマの主要5民族をあらわします。アウンサンスーチー国家顧問や、アメリカにあった亡命政権は、今もこの旗のみを国旗と認めています。


1974〜2010年までの国旗


ビルマ連邦社会主義共和国の国旗(1974-2010)

こちらは、社会主義政権に移った後に制定した国旗です。カントン部分に歯車、稲穂、14個の星が置かれた社会主義国らしいデザイン。この社会主義体制は25年間続きました。


ミャンマーの国名について

ビルマ語では、口語的な呼称としてBurma(バマー、ビルマ)、文語的な呼称としてMyanmar(ミャンマー)があり、この地域では古くからこの2つの呼称を使い分けている。
「ミャンマー」はサンスクリット語の「ムサンマ(強い人)」に由来するといわれている。「ビルマ」という名称は、ヒンドゥー教の神「ブラフマー」から派生したという説がある。


建国の英雄、アウンサン将軍とは?


ここからは、現在起こっているクーデターの背景ともなるミャンマーの歴史を、できる限り簡単に、かいつまんで紹介します。まずは建国の父であり、アウンサンスーチーの父、アウンサン将軍について。


アウンサン将軍が描かれている、かつての75チャット紙幣。

かつてイギリスの植民地とされていたビルマ(当時のミャンマー)では、1930年代から独立運動が起こりました。

日本太平洋戦争の戦略上、どうしてもこの地域を押さえたかったので、ビルマのイギリスに対する反感を利用し、独立を支援しました。ビルマ独立運動家の青年30名を密かに国外へ脱出させ、軍事的な知識や装備の使い方を教えこみます。のちにビルマ独立義勇軍となるこの30名は、「三十人の志士」と呼ばれています。

彼らのリーダーであり、かつて日本軍とともにイギリスと戦った人物。それが、アウンサンスーチーの父親であるアウンサン将軍です。


アウンサンと「三十人の志士」(前列左から4人目がアウンサン将軍)


独立への戦いを本格化させた頃から、ビルマの人々は彼のことを、尊敬を込めて「将軍」と呼ようになりました。そして1943年、日本の後押しでビルマ国が建国され、日本もこの国を制圧することに成功します。

しかし、独立一周年記念を迎え、アウンサン将軍は「ビルマの独立はまやかしだ。」と発言し、今度はイギリスも日本も追い払った上での「本当の独立」を目指すようになります。

そしてイギリス側に寝返り日本軍に勝利するのですが、イギリスは独立を許さなかったので、第二次世界大戦後もイギリスと戦いました。1947年には、当時のイギリス首相アトリーと、1年以内にビルマの独立を約束するという協定の調印にまでこぎつけます。

悲願の独立がついに果たされようとしていました。
しかしアウンサン将軍は、独立をその目で見ることはできませんでした。なんと、独立まであと半年という1947年7月、政敵に暗殺され、6人の仲間とともに非業の死を遂げるのです。

結局、1962年のクーデターでトップに立ったのは、ビルマ義勇軍の流れを持った、国軍のネ・ウィンという人物。彼はビルマ式社会主義と呼ばれる政策を掲げました。ビルマは社会主義国となったのです。

この一党独裁の社会主義は25年も続き、経済的な疲弊をもたらします。社会主義政策の失敗によって、ビルマはアジア最貧国へと転落。さらに国民は、長期にわたる抑圧的な軍事政権(軍が政治を支配する体制)に耐えることになりました。


民主化運動の象徴、アウンサンスーチーとクーデター


ノルウェーのノーベル平和賞スタンプ(2001)1991年に受賞したアウンサンスーチー

将軍の死から41年が経ちました。
アウンサン将軍の娘であるアウンサンスーチーは、インドやイギリスで学び、イギリス人のチベット文化研究者と結婚して、夫と2人の子供と共にイギリスで暮らしていました。
1988年、母親の看護をするために、たまたま祖国に帰国しました。

当時、ミャンマーでは民主化運動が激化していましたが、リーダーがいなくてまとまっていませんでした。そんな中、「アウンサン将軍の娘が戻ってきているらしい。」と噂が広まり、民主化運動の活動家たちが会いに来て、リーダーをやってくれとアウンサンスーチーに頼みます。

彼らとの交流を通して、アウンサンスーチーも自身の歴史的役割を改めて自覚することになり、ついに表舞台への登場を決意。初めて演題に立ち、50万人の国民を前に、「この運動は、第二の独立闘争ということができます。今や私たちは民主主義の独立闘争に加わったのです。」という有名な演説を行いました。

そして、1990年に予定されていた選挙への参加を目指し、国民民主連盟NLD)に参加。書記長に就任します。


国民民主連盟(NLD)の党旗

建国の父、アウンサンの娘である彼女の人気は圧倒的でした。すると国軍は、NLDを徹底的に弾圧し始めます。アウンサンスーチーは自宅軟禁され、NLD書記長を解任されてしまいました。


軍は、国外退去を条件に自由を認めると持ちかけましたが、彼女は拒否したといわれています。
この1度目の軟禁は1995年まで、なんと6年間も続きました。以降彼女は、長期軟禁と解放の繰り返しを何度も経験することになります。

アウンサンスーチーが軟禁されている中、1990年の選挙ではNLDが大圧勝。しかし政府は「この選挙は不当である。」と理屈をつけ、結局新たに誕生したのは、またしても軍部の独裁政権でした。


アウンサンスーチーのノーベル賞受賞と、国軍の新憲法

さて。1991年のことです。アウンサンスーチーはノーベル平和賞を受賞しました。非暴力による民主化運動の指導が評価されたことと、また夫であるマイケル・アリス氏が、妻をなんとか助けるために行ったロビー活動のおかげでもあったようです。これ以降、世界の多くの人々の注目や関心がミャンマーに寄せられるようになり、国際社会はミャンマーの軍事政権に対して、厳しい目を注ぎ始めます。

軍事政権はそれ以降、2008年まで長い時間をかけ、憲法を作り直します。内容はといえば、「主要3省は軍が管理する」「非常事態には、軍がすべての権力を持つ」といった内容が盛り込まれた、軍直轄の政党が選挙で負けたとしても、権力を譲らないで済むような憲法でした。さらにその中にはこんな項目がありました。

大統領の資格要件として、本人、両親、配偶者、子供とその配偶者のいずれかが外国国民であってはならない。

アウンサンスーチーの家族はイギリス国籍です。つまり新しく制定された憲法は、彼女が絶対に大統領になれないような憲法だったのです。

テイン・セインの民主化とミャンマーの経済成長

2011年、新たにテイン・セインが大統領に就任し、ミャンマーは社会主義から民主主義へと移行しました。
世界から厳しい目を向けられていた軍は、アメリカから受けていた経済制裁を解きたかったので、選挙の3日後、当時3度目の軟禁を受けていたアウンサンスーチーを解放しました。「民主的な政治になり、アウンサンスーチーの軟禁も解いた」ことを世界的・対外的に見せる必要があったのです。

一方、新政権のテイン・セインは、国際社会が思っていたよりも軍部を解体し、民主化を進めていきました。経済制裁も解除され、2010年代以降ミャンマーは、「ラストフロンティア」と呼ばれるようになります。
(参考記事:東南アジアのラストフロンティア|ミャンマー・ユニティ日本駐在営業部

海外の企業がこぞってミャンマーに進出し、この頃はまるで、明治維新と経済成長が一緒に来たような感じだったそうです。

2015年の選挙で、NLDが大圧勝。スーチーの政治が始まる

そして、2期目を狙うテイン・セイン(USDP)と、アウンサンスーチー率いる国民民主連盟(NLD)が戦ったのが、2015年の総選挙でした。民主化を進め経済的にもミャンマーを成長させたテイン・セインでしたが、選挙の結果は、やっぱりNLDが圧勝。

先の憲法により、アウンサンスーチーは大統領にはなれませんが、側近が大統領となりました。そしてなんと、大統領よりも発言権のある存在として国家顧問というポストを作り、そこにアウンサンスーチーが就任するのです。

アウンサンスーチーとNLDは、それから5年間ミャンマーを率いてきました。
頑丈な憲法のもと、軍が仕切る場所に資金が流れる仕組みが変えられません。また、ロヒンギャ問題(9割が仏教徒の国ミャンマーで、ロヒンギャと呼ばれる少数民族のイスラム教徒が虐殺されている問題)に対して有効な手を打てていないということで、国際社会から批判が集まっています。

しかしアウンサンスーチーは、2020年、2期目の選挙でも圧倒的な人気で大勝しました。テイン・セイン元大統領が代表をつとめる政党、USDPは、これに対して選挙の不正を訴えました。

アウンサンスーチーは選挙前には憲法改正案を提出し否決されていますが、2期目には念願の憲法改正が果たされるのでしょうか。… と、そんな中、またしても事件が起こります。

2期目が始まるというその日に、クーデターが勃発

2021年2月1日、アウンサンスーチー率いるNLD政権の2期目が始まろうとしているその日に、軍事クーデターが勃発。

国家顧問であるアウンサンスーチーや、ウィンミン大統領らNLD幹部が相次いで拘束され、自宅軟禁を強いられました。ミャンマー国軍は1年間の「非常事態宣言」を発令。現在、国のすべての権力を再び軍隊が握っています。


ミャンマーの歴史


  • 11世紀半ば頃、ビルマ人の統一王朝パガン朝が成立するが、1287年のモンゴル侵攻によって滅び、分裂状態が続く。
  • 16世紀半ばにタウングー朝が再び統一し、1754年にはコンバウン朝が成立する。
  • 19世紀には3度にわたるイギリスとの戦争が起こり、1886年にイギリス領インドの1州となる。
  • 1948年、ビルマ連邦として独立。
  • 1962年、クーデターにより軍事政権が成立する。
  • 1988年には民主化運動も起こるが、国軍のクーデターにより再び軍政となる。
  • 1989年、民主化運動の指導者アウンサンスーチーが軍事政権によって自宅軟禁となり、2010年までの間で3回、計15年にわたり自宅軟禁に置かれた。
  • 2008年、新憲法が制定される。
  • 2011年に民政へと移り、2015年の総選挙でアウンサンスーチーが実権を握る政府が成立した。少数民族ロヒンギャの問題が国政の課題となっている。
  • 2021年2月1日、軍事クーデターが勃発。

ミャンマーの国データ



正式名称 ミャンマー連邦共和国
英語表記 Republic of the Union of Myanmar
漢字表記 緬甸(略記:緬)
首都 ネーピードー
略号 AFG
面積 68万㎢(日本の約1.8倍)
人口 5141万人


通貨 チャット
言語 ミャンマー語
民族 ビルマ族、その他多くの少数民族
宗教 仏教、キリスト教、イスラム教
独立年 1948年にイギリスから独立
国旗の比率 2:3
在留邦人数
3063人

Information


ミャンマー国旗

MYANMAR
(3:5)


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