ヨルダン
国旗のデザインの意味と由来
黒・白・緑の3本の帯は、それぞれイスラムの古王朝、アッバース朝、ウマイヤ朝、ファーティマ朝を象徴し、赤の三角形は現在のヨルダン王朝であるハーシム家と1917年のアラブ反乱(大アラブ革命)をあらわします。白い七角星が放つ光は、イスラムの聖典『クルアーン(コーラン)』冒頭の一番重要な聖句「アッラーの他に神はなし、ムハンマドはアッラーの使徒である。」を構成する7つの単語をあらわしています。この聖句はシャハーダ(信仰告白)と呼ばれ、イスラム教徒になるときには、この句を真摯に唱えます。
国旗の原型は、汎アラブ色のもととなったアラブ反乱旗。のちのトランス・ヨルダン初代国王(フサイン・イブン・アリー)王制下のヒジャーズ地方(現在のサウジアラビア西部)の旗だったものに、1926年、フサインの次男である王子アブドゥッラーが白い七角星を付け加え、ヨルダンの旗としました。
ちなみにヨルダンの国旗から星を取り除くと、パレスチナの国旗🇵🇸となります。どちらも、イスラムの色とされる緑色が下段にあり、これは汎アラブ色の国旗の中でも珍しいパターンとなっています。
預言者ムハンマドの出身一族、ハーシム家とは?
ハーシム家は、アラビアのヒジャーズ地方のベドウィン(アラブの遊牧民族)の有力な豪族のひとつで、イスラム教の創始者ムハンマドの出身一族とされる名門です。預言者ムハンマドにつながる家系ということで、イスラムの聖地であるメッカとメディナがあるヒジャーズ地方では「高貴な家柄」を意味するシャリーフといわれ尊崇されてきました。
ヒジャーズはイスラム帝国発祥の地でしたが、13世紀以降、エジプトの政権やオスマン帝国の宗主権のもと、ハーシム家はメッカのシャリーフ(メッカの太守)の地位を与えられ自治を続けていました。
これが変化するのは第一次世界大戦時、イギリスがオスマン帝国後方のアラブ人を立ち上がらせ戦わせようとしたときでした。
ハーシム家38代のフサイン・イブン・アリーは、イギリスとフサイン・マクマホン協定を結び、イラクやシリア、パレスチナも含むアラビア全域の独立と支配を目指し、アラブ反乱を起こします。
このときフサインに協力してその軍事行動を指導したのが「アラビアのロレンス」といわれたイギリスのロレンス大佐です。
1916年、フサイン・イブン・アリーはイギリスの後ろ盾でヒジャーズ王国を建国し独立しましたが、その期間は短く、彼は王国をアラブ全体に広げることはできませんでした。
アラビア半島には、リヤドを本拠地とするサウード家のアブドゥルアジーズ・イブン・サウードが勢力を伸ばしていて、さらにイギリスは両家を戦わせようと、サウード家にも軍事支援をしていたのです。結局、ヒジャーズは後にアブドゥルアジーズ・イブン・サウードに攻められ、サウード家がサウジアラビアとして統合しました。
第一次世界大戦後、イギリスはフランスと分割したアラブの地をさらに分割し、フサインの子供たちに与えました。紆余曲折の末、フサインの三男ファイサルはイラク国王(ファイサル1世)に、次男アブドゥッラー(アブドゥッラー王)はトランス・ヨルダンの国王として落ち着きました。
現在では、ハーシム家の王統で残っているのは次男の血統であるヨルダン王国だけとなっています。
ヒジャーズ地方はイスラム帝国発祥の地でしたが、オスマン帝国の支配下に入ったため、ハーシム家もそれに従い、アリーから数えて38代のフサイン・イブン・アリーはオスマン帝国からメッカの太守の地位を与えられました。しかし、機会があれば自立して王国を建てようと考えていたフサインは、第一次世界大戦でオスマン帝国がドイツ側に参戦すると、イギリスと結んで反乱を起こすことを決意します。
1915年7月、イギリスの高等弁務官マクマホンとの間でフセイン・マクマホン協定を締結し、戦後のアラブの独立の保障を取りつけ、1916年6月、オスマン帝国に対する「アラブの反乱」に起ち上がりました。アリー、アブドゥッラー、ファイサルらの子供たちも父と共に戦い、各地でオスマン軍を破った。(このときフサインに協力してその軍事行動を指導したのが「アラビアのロレンス」といわれたイギリスのロレンスです)。
フサインの軍勢はイギリスの後押しで勝ち進み、フサインはヒジャーズ王国を建国。さらに三男ファイサルはヒジャーズ軍を率い、アラブ人の念願である大シリアの復興を実現しようとしました。
しかしアラビア半島の内陸ネジドにはリヤドを本拠とするサウード家のイブン・サウード(アブドゥルアジーズ)がワッハーブ教団系の武装集団と結んで徐々に勢力を伸ばしていました。
イギリスはイブン・サウードに対しても軍事支援を行い、アラブの両勢力を戦わせました。さらにそれだけでなく、イギリスは第一次世界大戦中にバルフォア宣言を出し、ユダヤ人に戦後の国家建設を約束します。加えて、イギリス・フランス・ロシアはサイクス・ピコ協定を結び、大戦後のオスマン帝国領の分割を密約していたのです。(このイギリス三枚舌外交が、後に中東のパレスチナ問題の原因となりました。)
オスマン帝国降伏後、アラビア半島の主導権を巡るヒジャーズ王国ハーシム家のフセイン vs ネジド地方を基盤とするサウード家のイブン・サウードの戦いは、サウード家の優位で進みました。
イギリスはその情勢を見てフセイン支援をやめ、さらにアラビアの有力部族も次々とサウード家側につき、ハーシム家のヒジャーズ王国は滅亡してしまいました。
第一次世界大戦後、イギリスは西アジアを委任統治とすることになり、1921年、フランスと分割したアラブの地をさらに分割し、フセインの子供たちに与えました。紆余曲折の末、フサインの三男ファイサルはイラク国王(ファイサル1世)に、次男アブドゥッラー(アブドゥッラー王)はトランスヨルダンの国王として落ち着きました。
しかし、ヨルダンのアブドゥッラー王は、1951年、パレスチナ人に暗殺されました。
イラクのファイサル王も1933年に死去、後継のファイサル2世は1958年のイラク革命で殺害されてハーシム王家は滅び、イラクは革命によって共和国に。次男が国王になったヨルダン王国だけは、アブドゥッラーの子が王位を継承し、王政を維持しています。つまりハーシム家の王統で現在まで残っているのはヨルダン王国だけとなっています。
20世紀のその子孫、アリーから数えて第38代のフセインは、オスマン帝国でメッカの太守に任命されましたが、イギリスとフセイン・マクマホン協定を結び、オスマン帝国からの独立を目指します。
そして1916年、「アラブの反乱」を起こしヒジャーズ王国を建国。その子たちは、イラク王国、ヨルダン王国の国王となりました。
※現在、ハーシム家の王統で残っているのはヨルダン王国だけとなっています。
ヨルダンの国名について
国名はヨルダン川に由来し、ヘブライ語で「流れ下る」の意味。正式名称であるヨルダン・ハシェミット王国の「ハシェミット」とは、メッカのムハンマドの出身一族ハーシム家を指す(クライシュ族に属し、 アッバース朝もこの一門から出たという)。
20世紀のその子孫、フサイン・イブン・アリーはオスマン帝国でメッカの太守に任命されたが、イギリスとフサイン・マクマホン協定を結び、1916年に「アラブの反乱」を起こしヒジャーズ王国を建てた。その子たちは、イラク王国、ヨルダン王国の国王となった。
ヨルダンの歴史
ヨルダンは、アラビア半島北西部に位置する国で、国土の大部分が砂漠か半砂漠の不毛地となっています。イスラエルとの国境には、海面下約400mの死海が横たわっていますが、海への出口は最南部のアカバ湾沿岸だけで、実際にはほぼ内陸国に近い国となります。
- 紀元前1万年頃から農業が行われる。
- 106年にローマ帝国の属州となる。
- 7世紀まではローマ帝国、ビザンツ帝国の支配下にあり、その後、アラブ人の進出によりイスラム教が広まる。
- イスラム系のウマイヤ朝、アッバース朝の支配のあと、16世紀からはオスマン帝国が支配。
- 1919年にイギリスの委任統治領となり、1923年にはトランス・ヨルダン首長国となる。
- 第二次世界大戦後の1946年にトランス・ヨルダン王国として独立。1949年に現在の国名に改める。
- 1967年の第三次中東戦争で、ヨルダン川西岸を占領されると、国内で反イスラエル勢力が台頭するが、1970年にフセイン国王がゲリラを弾圧し、国内から追放する。
- 現在、200万人を超えるパレスチナ難民を国内に抱える。
ヨルダンの国データ
| 正式名称 | ヨルダン・ハシェミット王国 |
|---|---|
| 英語表記 | Hashemite Kingdom of Jordan |
| 漢字表記 | 約旦 |
| 首都 | アンマン |
| 略号 | JOR |
| 面積 | 8万9000㎢(日本の約4分の1) |
| 人口 | 995万6000人 |
| 通貨 | ヨルダン・ディナール |
|---|---|
| 言語 | アラビア語 |
| 民族 | アラブ人 |
| 宗教 | イスラム教、キリスト教など |
| 独立年 | 1946年にイギリスから独立 |
| 国旗の比率 | 1:2 |
| 在留邦人数 | 329人 |