フィリピン
国旗のデザインの由来と意味
白の三角形は平等をあらわし、青は平和と正義を、赤は勇気と愛国心をあらわします。
太陽は自由のシンボルで、太陽から放たれる8本の光は、1898年に宗主国スペインに反乱を起こした最初の8州をあらわしています。また、三角形の隅に置かれた3つの星は、フィリピンの主な島であるルソン島、ミンダナオ島、ヴィサヤ島の象徴です。
赤・白・青の配色は、アメリカ合衆国の星条旗から、旗竿側の白い三角形や星は、フィリピンと同じようにスペインからの独立を目指したキューバの国旗からの影響と考えられています。
またこの旗は、戦争のときには天地を逆にし、赤が上になるように掲げることが法律で定められています。
戦争中のフィリピンの国旗
このように赤を上にすることで、勇気と愛国心を強調しています。
フィリピンの国章
約380年をスペインに、約50年間をアメリカに統治されていたフィリピンの国章には、アメリカとスペインとの歴史があらわされています。
国旗カラーの盾型紋章。国旗と同じく、フィリピンのシンボルである太陽と、3つの星が描かれています。
左下のオリーブの枝をつかんでいるハクトウワシは、アメリカとの歴史をあらわし、右下のライオンはスペインとの歴史をあらわしています。図象は少し違いますが、アメリカの国章、スペインの国章にも、それぞれの国のシンボルとして描かれている動物です。
フィリピンの国名について
1542年、この地域を統治していたスペインの皇太子フェリペ2世にちなんで、周辺の国々を「フェリペの島」と名付けたことに由来する。
フィリピンの国旗の歴史(略史)
16世紀以来、フィリピンはスペインの植民地支配を受けていました。19世紀末、国民的英雄として知られるホセ・リサールに指導されて民族運動が盛んになりました。
リサールは、武力ではなく文筆によって、スペインのフィリピンへの圧政を批判し告発しました。
1887年に出版した『ノリ・メ・タンヘレ(私にさわるな)』という小説はフィリピン人のナショナリズムを高揚させ、人々を革命へと導いていきました。
しかし、フィリピン革命が起こると、革命扇動の容疑で逮捕され、35歳という若さで処刑されてしまいます。
その後、リサールの運動を継承した革命家たちによって組織された秘密結社「カティプナン」が、独立を目指して戦いました。
カティプナンの革命旗
1898年、米西戦争(アメリカ・スペイン戦争)が勃発。
太平洋への進出を狙うアメリカは、フィリピンのスペインからの独立に全面的に協力することを条件に、香港へ亡命していたカプティナンの指導者、エミリオ・アギナルドに協力を求めます。アギナルドは帰国して独立運動を再開し、1899年1月、フィリピン共和国として独立を宣言しました。
初代大統領となったアギナルドが考えたのが以下の国旗、現在の国旗の原型になったデザインです。
フィリピン第一共和国の国旗
今の国旗と似ていますが、さきほどのカプティナンの旗のように、太陽に顔がありました。
さて。米西戦争の結果はアメリカの勝利。スペインはアメリカに、フィリピンを2000万ドルで譲渡します。フィリピンに独立を約束していたアメリカですが、結局独立を認めず、「フィリピンの発展にはアメリカの指導が必要」という口実で植民地支配を開始しました。
このため、アメリカとフィリピンの間で米比戦争が起きますが、1901年にアギナルドが逮捕され、フィリピンは完全にアメリカの植民地となってしまいました。
1907〜19年には、フィリピン国旗🇵🇭の掲揚は禁止され、アメリカの国旗である星条旗🇺🇸がフィリピンでの公式な旗となります。
その後、第二次世界大戦中には、日本軍がフィリピンに侵攻し占領します。
日本は、大東亜共栄圏への参加・戦争への参戦を条件にフィリピンの独立を認め、フィリピン第二共和国が成立。大東亜共栄圏というのは、「アジアはひとつの共同体であり、欧米の支配から抜け出し、自立して繁栄できる。」とした考え方で、日本の中国および東南アジア全域に対する侵略を美化し、合理化するために唱えたスローガンのことです。
フィリピン第二共和国の国旗
そして、日本が敗戦し、第二次世界大戦が終わった後の1946年、フィリピンは正式に独立しました。
とはいえ、その後もフィリピンは引き続き、経済的・軍事的にアメリカの強い影響の下に置かれました。
かつて、フィリピンの独立記念日は7月4日(アメリカから独立した日)でしたが、1961年には、スペインからの独立を宣言した6月12日に変更されています。
独立後は、国旗の色味がたびたび修正され、1997年から現在の国旗となっています。
フィリピンの歴史(略史)
フィリピンは、東南アジア、太平洋上の約7000の島々からなる国です。
1571年にスペインによる植民地化が始まり、この植民地化によってフィリピンは初めて統一されました。カトリックの国であるスペインの影響で、ASEAN(東南アジア諸国連合)で唯一キリスト教の国となっています。今でも国民の8割がカトリック教徒で、そのほかのキリスト教も合わせると国民の9割がキリスト教を信仰しています。
スペイン、アメリカ、日本の統治を経て、第二次大戦後に独立を果たしたフィリピンですが、1965年に就任したマルコス大統領の独裁で多くの人々が拷問・投獄されました。その一方、フィリピンに外資を流入させ経済を急成長させましたが、政治家の腐敗が進み、マルコス自身も国民を犠牲にして私腹を肥やしたと糾弾されました。特に、妻のイメルダ婦人の、高価な靴や装飾品の数々が有名です。
- 紀元前500年〜13世紀頃、マレー系民族が移り住み、14世紀以降にイスラム教が広まる。
- 1521年にマゼランがフィリピンに寄港して以降、スペインが進出をはじめ、1571年にマニラを占領し、フィリピン全土を植民地とする。
- 19世紀末からホセ・リサールによる革命運動が起こり、1898年アメリカ・スペイン戦争の結果、アメリカ領となる。
- 第二次世界大戦中は日本軍が占領し、戦後の1946年にフィリピン共和国として独立する。
- 1965年にマルコスが大統領に就任して、1986年の反乱により国外に脱出するまで、長期の独裁政治が続く。以後、国軍のクーデターなどで不安定な状態が続く。2014年にイスラム勢力との合意が成立。
- 2016年にロドリゴ・ドゥテルテが大統領に就任し、強い指導力をしめしている。
「フィリピンのトランプ」ドゥテルテ大統領とは?
2021年現在在任中の、フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領は、「フィリピンのトランプ」ともいわれるほどの豪快・強面な人物。さらに「パニッシャー(処刑人)」というあだ名まである、過激な大統領として知られています。
彼はダバオ市長を7期務めましたが、当時、ダバオには組織的な薬物犯罪が蔓延し、治安は最悪でした。そんな状況を変えようと、ドゥテルテ市長のもとで行われたのが、なんと「怪しい人物は全員処刑する」という超法規的殺人。「ダバオ・デス・スクワット(ダバオ・死の部隊)」と呼ばれる自警団が、疑わしい人物を全員、裁判もせずに次々と処刑していったのです。
その結果、麻薬の売人がいなくなり、“犯罪都市”と呼ばれていたダバオの治安は劇的に改善しました。犯罪発生率が減り、今では、「東南アジアで最も平和な都市」とダバオ観光局が掲げるほど平和になりました。さらにドゥテルテは、汚職の撲滅を含め事業環境を整備し、ダバオに経済発展までもたらしました。
ドゥテルテ大統領は、自警団による不法殺人について一切の関与を否定していますが、事実なのかジョークなのか、多くの過激な発言を残しています。2015年のクリスマス直前に公開されたビデオメッセージで語られたのがこちら。
あらゆる全ての犯罪者諸君、ならびにフィリピン国民を虐げる諸君、メリークリスマス。
暴行や犯罪を続けるのならば、今年が諸君の最後のクリスマスになるだろう。
2016年の演説では、力強くこう語りました。
もし、悪に手を染めた人間がいるなら、取っ捕まえて、ヘリコプターから突き落とす。私が以前やったようにね。
こんな過激な言動にも注目が集まり、国際社会ではスキャンダラスな人物としてとらえられていますが、なんとフィリピン国内の支持率は77%超と圧倒的。
2021年には、ダバオ市長を引き継いだドゥテルテ大統領の娘、サラ・ドゥテルテが大統領も引き継ぐのではという憶測に対して、「娘は大統領選に出馬しない。私が経験していることを彼女にやらせるのは気の毒で、出馬しないように伝えている。」と語っています。
フィリピンの国データ
正式名称 | フィリピン共和国 |
---|---|
英語表記 | Republic of the Philippines |
漢字表記 | 比律賓(略記:比) |
首都 | マニラ |
略号 | PHL |
面積 | 29万9404㎢(日本の約80%) |
人口 | 1億98万人 |
通貨 | ペソ |
---|---|
言語 | フィリピノ語、英語 |
民族 | マレー系が主体、中国系、スペイン系など |
宗教 | キリスト教(カトリックなど)、イスラム教 |
独立年 | 1946年にアメリカから独立 |
国旗の比率 | 1:2 |
在留邦人数 | 1万6570人 |